サバのあれこれ神奈川水総研 おさかな情報 さかなのあれこれ サバ(マサバ、ゴマサバ)
資源環境部 専門研究員 三谷 勇・企画経営部 技師 樋田史郎 (2002年5月) 大衆魚といえば、イワシとならびサバがすぐに思い浮かびます。昭和40年代から50年代にかけては大豊漁の時代で、毎年100万トン以上も漁獲していました。それが、年々漁獲が減少してきて、最近では、非常に少なくなってきました(→グラフ 漁獲量の変化)。平成10年11月4日の朝日新聞によると、宮城県石巻魚市場に水揚げされたマサバがキロ当たり3,410円の最高値を記録しました。脂の乗った秋サバが生産地でこのような高値になったのでは、なかなか我々庶民の口まで届きません。このようなことは、サバ資源が極端に減少してきていることを示しています。サバ資源は、大衆魚の名を返上しなければならない事態にまで陥っています。日本人によく親しまれている大衆魚のサバは今や幻の魚になりつつありますが、ここで今回は、サバの食用の歴史や生態などをみてみましょう。
本記事は、「神奈川・静岡の釣情報誌 Hotline」に掲載されたものを大幅に改訂のうえ掲載しました。
ゴマサバ(おさかな図鑑)
マサバ(おさかな図鑑)
目次
1.なぜサバと呼ばれる?
サバは、なぜ「サバ」と呼ばれるのでしょうか。
サバの語源は、元禄12年(1699年)に発行された日本釈名(貝原益軒著)や享保2年(1717年)に発行された辞書の東雅(新井白石著)、江戸時代に発行された国語辞典の和訓栞(谷川士清編)によれば、サバの歯が他の魚に比べて小さいことに由来し、サはささやかの意、ハは歯で、小歯(サバ)であると記しています。
宝暦13年(1763年)に発行された山海名産図会(木村孔恭著)には、サバの漁模様のことが記述されています。このなかで、サバが大群を作って来遊する様子が描かれています。この魚が群れをなして回遊することから、「多(さは)なる魚」の意で名付けられたという説もあります。
天保2年(1831年)に発刊された魚鑑(武井周作著)には、サバは周防(� ��山口県)を名産とす、周防の佐婆郡を好とす、故に名づくとありますが、名産地はこの他にもありましたので、この説よりも前述の二つの説が語源として使われています。
このほかに、アイヌ語でサバを「シャンバ」と呼ばれていたのが変化して、サバと呼ばれるようになったという説があります。
それではサバが歴史的にどこが名産であったかをみてみましょう。
2.サバの日本史
(1)縄文時代
サバの骨は日本各地にある貝塚や遺跡から出土しています。神奈川県では、東京湾沿岸にある青ヶ台貝塚(横浜市)や夏島貝塚(横須賀市)、松輪間口東洞穴(三浦市)や、相模湾沿岸にある諸磯遺跡(三浦市)、立石遺跡(藤沢市)、西方貝塚(茅ヶ崎市)からサバの骨が出土しています。秋田県大館市にある池内遺跡は海から遠く離れた縄文時代前期(約5000年前)の遺跡ですが、ここからもブリやヒラメとともにサバの骨が出土しています。日本がまだ国としてまとまっていない古い時代でも、サバは海に面した村々ばかりでなく、山奥の人々にもサバは賞味されていました。
(2)飛鳥時代
日本の歴史が古書に初めて記述された時代に入ると、養老4年(720年)に完成した日本書紀(太安万侶ら編)や天平5年(733年)に成立した出雲風土記にはサバの名産地として周防のサバが記載されています。この時代にはすでにサバが各地でとれ、その味比べもされていたようです。仲哀天皇が九州征伐の途中、周防のサバの浦で土着の熊鰐が服属の儀式のなかで魚塩(なしお)を天皇に献上しました。この魚塩が加工したサバですから、今と変わらないくらい魚の加工技術が進んでいたことになります。また、周防国佐波郡佐波郷はサバにちなんでつけられた地名といわれていますので、サバのブランド化も行われていたようです。
(3)奈良時代
万葉の時代に入っても、サバの食用は変わらず、貴族から庶民にいたるまで食べていました。貴族は、税金の一部として能登(現石川県)や筑前(現福岡県北部)の名産地からサバを平城京に届けさせていました。この輸送には、能登では18日間、筑前では27日間かかったといいますから、生のサバをそのまま輸送したのではなく、加工したサバ、たとえば塩サバなどで都に運ばれていました。
庶民がサバを食べていた例として次のような話があります。天平7年(735年)に天然痘のような疫病が発生しました。現在の厚生労働省に当たる曲薬寮(くすりのつかさ)から次のような通達が出されました。病後20日間は鮮魚・肉・生菓菜・生水などの飲食を避ける。もし、魚肉を食べたければ、よく火を通しなさい。アワビ・ カツオはよいが、サバ・アジ・アユは食べてはいけない。この官符からも、一般の人々がサバなどの大衆魚を食べていたことがわかります。
(4)平安時代
平安時代には、延喜7(907)年に成立した延喜式に記された諸国物産によると、能登(石川県)、周防(山口県)、土佐(高知県)の鯖(サバ)が地方の名産品でした(→図 サバの名産地)。平安中期に成立した新猿楽記(藤原明衡著)には、全国で有名な物産をあげていますが、そのなかにも周防のサバが記されています。この時代でも周防のサバが名産品で、京都にある東西市で売りさばかれていました。その新猿楽記によると、平安京の西京に住む右衛門尉一家が鯖の粉切を食べていたことが記されていますので、サバはイワシのように貴族に忌み嫌われることなく、庶民も貴族も賞味していたことになります。
(5)鎌倉時代
武士社会となった鎌倉時代でも、庶民がサバを食べていたことが庭訓往来(僧玄恵作)に記されています。このなかに全国の名産品として、周防のサバがあげられています。周防のサバはこの時代になっても変わらない人気を集めています。サバの塩漬は保存食として利用され、武士社会には好まれたようです。
鎌倉時代初期にできた宇治拾遺物語によると、サバは華厳教の形をかえた姿であるという説話がのっています。天平年間(740年代)に聖武天皇の詔によって華厳宗総本山の東大寺が建立されることになりましたが、その建築中にサバを売る古老が門前にきましたので、聖武天皇はその古老を講師として大法会を開きました。古老は売り物のサバを経机に置いたところ、サバは80巻の華厳経に変わってしま いました。この古老はお経を唱え、法会の途中に急に消えてしまいました。同じような話として、80尾のサバを売り歩く古老が門前に来たところ、サバはたちまちのうちに80巻の華厳経に変わり、古老がもっていた杖は大仏殿の東門に白榛(しろはり)の木になってしまいました。この木はたちまちのうちに枝葉をつけ、30〜40年後まで葉が青く繁っていましたが、その後、枯れ木となり、源平争乱期の治承4年(1180年)に炎上したと伝えられています。
現在でもサバと仏教との関わり合いは深く、各地に鯖大師がまつられています。徳島県海部郡海南町にある石像の鯖大師は右手にサバをもち、このお堂の前には石製のサバがまつられています。このお大師様は加工された塩サバを加持によって生きかえさせ、海にもどしたといわれています� ��広島県因島にもサバをもった弘法大師がまつられています。サバは華厳宗との関わり合いばかりでなく、富山県にある浄土真宗のお寺や京都の神社でも仏事や祭事に利用されています。
京都の賀茂別雷神社(上賀茂神社)では、毎年1月24日に行われるお祭り(御棚会神事)に供えられる神饌(しんせん)は魚類を中心としていますが、このなかにカマスやアジとともにサバも供えられます。また、この神社と賀茂御祖神社(下鴨神社)で毎年5月15日に行われる葵祭りには、神霊の依代(よりしろ)として季節の草花である葵と桂を神前の中央に、その前には主に魚類を供えますが、このなかに小ダイやフナとともにサバが丸ごと供えられています。サバが神饌魚として用いられた例は平安時代にはみられず、鎌倉・室町時代の行事食にも使われてい ませんので、賀茂神社の神饌魚にサバが使われるようになったのは近世以後のことのようです。
(6)江戸時代
江戸時代に入ると、サバは荷供御(はすのくご)という祝事に使われています。この祝いは毎年7月15日に行われます。生荷葉(なまはすのは)で強飯(こわい)を包んで膳に盛り、刺サバを荷葉にくるんでこれに添えます。これを先祖に供えた後、家長から臣僕の順でいただくという祝いで、この時代にはよく行われていたようです。
この時代のサバは、春の終り頃から秋の終り頃にかけて、東京湾のいたるところで漁獲されていましたが、当時の日本諸国名物尽によると、能登の刺サバが名産品でした。刺サバは、生鮮なサバの内臓と鱗を取り除き、背開きしたものを塩づけにしたもので、一つの頭をもう一つの頭の鰓の間に刺し入れ、重ねたものを一刺しといいます。能登の刺サバは上品で、越中・佐渡のものが これに次ぎ、周防・長門のものがその次ぎになると元禄8年(1695年)に発行された本朝食鑑(小野必大著)に評価されています(→図 サバの名産地)。この時代には、刺サバのほかに、サバを丸く圧したものにワサビを添えた松のすしや、東海道や奥洲街道の宿々で出された焼物・煮物、サバの背腸(せわた)を用いた塩辛などに利用されていました。また、豊後臼杵藩5万石稲葉家の屋敷跡からマサバの骨が出土し、大名の宴会にマサバが食材として使われていたことがわかります。