サバのあれこれ
神奈川水総研 おさかな情報 さかなのあれこれ サバ(マサバ、ゴマサバ)
資源環境部 専門研究員 三谷 勇・企画経営部 技師 樋田史郎 (2002年5月)大衆魚といえば、イワシとならびサバがすぐに思い浮かびます。昭和40年代から50年代にかけては大豊漁の時代で、毎年100万トン以上も漁獲していました。それが、年々漁獲が減少してきて、最近では、非常に少なくなってきました(→グラフ 漁獲量の変化)。平成10年11月4日の朝日新聞によると、宮城県石巻魚市場に水揚げされたマサバがキロ当たり3,410円の最高値を記録しました。脂の乗った秋サバが生産地でこのような高値になったのでは、なかなか我々庶民の口まで届きません。このようなことは、サバ資源が極端に減少してきていることを示しています。サバ資源は、大衆魚の名を返上しなければならない事態にまで陥っています。日本人によく親しまれている大衆魚のサバは今や幻の魚になりつつありますが、ここで今回は、サバの食用の歴史や生態などをみてみましょう。
本記事は、「神奈川・静岡の釣情報誌 Hotline」に掲載されたものを大幅に改訂のうえ掲載しました。
ゴマサバ(おさかな図鑑)
マサバ(おさかな図鑑)
目次
1.なぜサバと呼ばれる?
サバは、なぜ「サバ」と呼ばれるのでしょうか。
サバの語源は、元禄12年(1699年)に発行された日本釈名(貝原益軒著)や享保2年(1717年)に発行された辞書の東雅(新井白石著)、江戸時代に発行された国語辞典の和訓栞(谷川士清編)によれば、サバの歯が他の魚に比べて小さいことに由来し、サはささやかの意、ハは歯で、小歯(サバ)であると記しています。
宝暦13年(1763年)に発行された山海名産図会(木村孔恭著)には、サバの漁模様のことが記述されています。このなかで、サバが大群を作って来遊する様子が描かれています。この魚が群れをなして回遊することから、「多(さは)なる魚」の意で名付けられたという説もあります。
天保2年(1831年)に発刊された魚鑑(武井周作著)には、サバは周防(� ��山口県)を名産とす、周防の佐婆郡を好とす、故に名づくとありますが、名産地はこの他にもありましたので、この説よりも前述の二つの説が語源として使われています。
このほかに、アイヌ語でサバを「シャンバ」と呼ばれていたのが変化して、サバと呼ばれるようになったという説があります。
それではサバが歴史的にどこが名産であったかをみてみましょう。
2.サバの日本史
(1)縄文時代
サバの骨は日本各地にある貝塚や遺跡から出土しています。神奈川県では、東京湾沿岸にある青ヶ台貝塚(横浜市)や夏島貝塚(横須賀市)、松輪間口東洞穴(三浦市)や、相模湾沿岸にある諸磯遺跡(三浦市)、立石遺跡(藤沢市)、西方貝塚(茅ヶ崎市)からサバの骨が出土しています。秋田県大館市にある池内遺跡は海から遠く離れた縄文時代前期(約5000年前)の遺跡ですが、ここからもブリやヒラメとともにサバの骨が出土しています。日本がまだ国としてまとまっていない古い時代でも、サバは海に面した村々ばかりでなく、山奥の人々にもサバは賞味されていました。
(2)飛鳥時代
日本の歴史が古書に初めて記述された時代に入ると、養老4年(720年)に完成した日本書紀(太安万侶ら編)や天平5年(733年)に成立した出雲風土記にはサバの名産地として周防のサバが記載されています。この時代にはすでにサバが各地でとれ、その味比べもされていたようです。仲哀天皇が九州征伐の途中、周防のサバの浦で土着の熊鰐が服属の儀式のなかで魚塩(なしお)を天皇に献上しました。この魚塩が加工したサバですから、今と変わらないくらい魚の加工技術が進んでいたことになります。また、周防国佐波郡佐波郷はサバにちなんでつけられた地名といわれていますので、サバのブランド化も行われていたようです。
(3)奈良時代
万葉の時代に入っても、サバの食用は変わらず、貴族から庶民にいたるまで食べていました。貴族は、税金の一部として能登(現石川県)や筑前(現福岡県北部)の名産地からサバを平城京に届けさせていました。この輸送には、能登では18日間、筑前では27日間かかったといいますから、生のサバをそのまま輸送したのではなく、加工したサバ、たとえば塩サバなどで都に運ばれていました。
庶民がサバを食べていた例として次のような話があります。天平7年(735年)に天然痘のような疫病が発生しました。現在の厚生労働省に当たる曲薬寮(くすりのつかさ)から次のような通達が出されました。病後20日間は鮮魚・肉・生菓菜・生水などの飲食を避ける。もし、魚肉を食べたければ、よく火を通しなさい。アワビ・ カツオはよいが、サバ・アジ・アユは食べてはいけない。この官符からも、一般の人々がサバなどの大衆魚を食べていたことがわかります。
(4)平安時代
平安時代には、延喜7(907)年に成立した延喜式に記された諸国物産によると、能登(石川県)、周防(山口県)、土佐(高知県)の鯖(サバ)が地方の名産品でした(→図 サバの名産地)。平安中期に成立した新猿楽記(藤原明衡著)には、全国で有名な物産をあげていますが、そのなかにも周防のサバが記されています。この時代でも周防のサバが名産品で、京都にある東西市で売りさばかれていました。その新猿楽記によると、平安京の西京に住む右衛門尉一家が鯖の粉切を食べていたことが記されていますので、サバはイワシのように貴族に忌み嫌われることなく、庶民も貴族も賞味していたことになります。
(5)鎌倉時代
武士社会となった鎌倉時代でも、庶民がサバを食べていたことが庭訓往来(僧玄恵作)に記されています。このなかに全国の名産品として、周防のサバがあげられています。周防のサバはこの時代になっても変わらない人気を集めています。サバの塩漬は保存食として利用され、武士社会には好まれたようです。
鎌倉時代初期にできた宇治拾遺物語によると、サバは華厳教の形をかえた姿であるという説話がのっています。天平年間(740年代)に聖武天皇の詔によって華厳宗総本山の東大寺が建立されることになりましたが、その建築中にサバを売る古老が門前にきましたので、聖武天皇はその古老を講師として大法会を開きました。古老は売り物のサバを経机に置いたところ、サバは80巻の華厳経に変わってしま いました。この古老はお経を唱え、法会の途中に急に消えてしまいました。同じような話として、80尾のサバを売り歩く古老が門前に来たところ、サバはたちまちのうちに80巻の華厳経に変わり、古老がもっていた杖は大仏殿の東門に白榛(しろはり)の木になってしまいました。この木はたちまちのうちに枝葉をつけ、30〜40年後まで葉が青く繁っていましたが、その後、枯れ木となり、源平争乱期の治承4年(1180年)に炎上したと伝えられています。
現在でもサバと仏教との関わり合いは深く、各地に鯖大師がまつられています。徳島県海部郡海南町にある石像の鯖大師は右手にサバをもち、このお堂の前には石製のサバがまつられています。このお大師様は加工された塩サバを加持によって生きかえさせ、海にもどしたといわれています� ��広島県因島にもサバをもった弘法大師がまつられています。サバは華厳宗との関わり合いばかりでなく、富山県にある浄土真宗のお寺や京都の神社でも仏事や祭事に利用されています。
京都の賀茂別雷神社(上賀茂神社)では、毎年1月24日に行われるお祭り(御棚会神事)に供えられる神饌(しんせん)は魚類を中心としていますが、このなかにカマスやアジとともにサバも供えられます。また、この神社と賀茂御祖神社(下鴨神社)で毎年5月15日に行われる葵祭りには、神霊の依代(よりしろ)として季節の草花である葵と桂を神前の中央に、その前には主に魚類を供えますが、このなかに小ダイやフナとともにサバが丸ごと供えられています。サバが神饌魚として用いられた例は平安時代にはみられず、鎌倉・室町時代の行事食にも使われてい ませんので、賀茂神社の神饌魚にサバが使われるようになったのは近世以後のことのようです。
(6)江戸時代
江戸時代に入ると、サバは荷供御(はすのくご)という祝事に使われています。この祝いは毎年7月15日に行われます。生荷葉(なまはすのは)で強飯(こわい)を包んで膳に盛り、刺サバを荷葉にくるんでこれに添えます。これを先祖に供えた後、家長から臣僕の順でいただくという祝いで、この時代にはよく行われていたようです。
この時代のサバは、春の終り頃から秋の終り頃にかけて、東京湾のいたるところで漁獲されていましたが、当時の日本諸国名物尽によると、能登の刺サバが名産品でした。刺サバは、生鮮なサバの内臓と鱗を取り除き、背開きしたものを塩づけにしたもので、一つの頭をもう一つの頭の鰓の間に刺し入れ、重ねたものを一刺しといいます。能登の刺サバは上品で、越中・佐渡のものが これに次ぎ、周防・長門のものがその次ぎになると元禄8年(1695年)に発行された本朝食鑑(小野必大著)に評価されています(→図 サバの名産地)。この時代には、刺サバのほかに、サバを丸く圧したものにワサビを添えた松のすしや、東海道や奥洲街道の宿々で出された焼物・煮物、サバの背腸(せわた)を用いた塩辛などに利用されていました。また、豊後臼杵藩5万石稲葉家の屋敷跡からマサバの骨が出土し、大名の宴会にマサバが食材として使われていたことがわかります。
性的羞恥
江戸中後期には江戸の各所に料理茶屋ができてきました。有名な茶屋には大名のなかでも通人といわれる人達が出入りをしていました。深川にある升屋もこの有名な茶屋ですが、天明3年(1783年)3月4日の料理をみると、お吸い物にサバが使われています。この年は、この時代のなかでも大飢饉が起きていましたが、サバばかりでなくタイやサヨリ、アナゴ蒲鉾など多くの食材が使われていることに驚かされます。
3.サバの仲間と見分け方
サバの仲間にはマサバとゴマサバの2種類がいます。これらの住み分けは、どちらかというと、マサバは冷水性で比較的沿岸に分布し、水温が14〜18℃の時に多くとれますが、ゴマサバは暖水性で沖合に分布し、19〜25℃の時に多くとれます。
マサバは、典型的な魚の形をした紡錘形で、腹部が銀白色でやや平べったく、ここには斑点がありません。ゴマサバの体形はマサバに似ていますが、腹部が太っていて体全体に丸みをおびています。体長が17cm以上のゴマサバでは、体側や腹部に小さな黒い斑点がたくさんあるので、マサバと区別することができます。背鰭の硬い骨(これを棘条という)は、マサバでは9〜10本ですが、ゴマサバでは12本以上(まれに11本)あります。
日本周辺のサバ類は、ゴマ� �バよりもマサバの方が圧倒的に多く、このなかでも、太平洋側を南北に回遊するマサバ(これを太平洋系群という)は我が国のサバ漁獲量の増減を左右するほど大きな影響を与えています。関東近海のサバ漁船は、伊豆諸島に南下し越冬しているマサバを漁獲しています。これが、寒サバといわれるサバで、脂がのり、体も太っていて、たいへんおいしい魚です。
ところが、近年のように、このマサバが極端に減少してきますと、関東近海のサバ漁船はゴマサバをねらってとるようになってきました。マサバの資源が多い時には、水揚げ単価の安いゴマサバには見向きもしなかったのですが、とりたいマサバがみえないのでは仕方がありません。平成11年の1都3県サバ漁獲量をみると、ゴマサバが5,808トン漁獲したのに対して、マサバはわ ずか274トンでした。これでは、マサバだけを追いかけても経営が成り立ちませんので、ゴマサバを狙うしかありません。ゴマサバの適水温は19〜25℃、マサバの敵水温は14〜18℃ですから、ゴマサバの漁場はマサバの漁場よりも沖合いにあることになります。関東近海のサバ漁船は、マサバを狙っていたときよりも遠くの海に出かけてゴマサバをとるようになってきています。
こんな苦境の中でも、サバ漁船はマサバをとることをあきらめたわけではありません。締めサバとして利用価値の高いマサバは高く売れます。サバ漁船の船頭は、操業中に表層を踊り狂って餌に飛びつくサバをブリッジからよく見ています。マサバとゴマサバの見分け方は、体側にある斑点模様の有無、体つきの太り具合ですが、最近では、海の中で泳いでいる� ��は体側の班点がなくマサバのようにみえています。そのサバをたも網ですくってみると、徐々に黒い斑点が浮き出てきてゴマサバであることを知ったり、マサバと思って魚艙に入れて漁港で水揚げするときにゴマサバに変わっていたりすることが非常に多くなってきているといいます。
では、マサバとゴマサバをどのように見分けたらよいのでしょうか。
今までの多くのサバ研究者は、体側の斑点がはっきり見えないような小さなサバはレントゲンにかけます。撮影したレントゲンフィルムから、第1背鰭を支えている担鰭骨数を数えます。さらに、第1背鰭の棘数も数えます。この担鰭骨の数や棘数がそれぞれ11〜12あればゴマサバ、9〜10であればマサバと判定しています。もちろん、体側に斑点があるかないか、体つきが丸いか 楕円形であるかどうかも観察しています。これらを総合してサバの種類を判定するのですが、最近では先ほどお話したように、体側の斑点が非常に不鮮明なものが多く、一見、マル(ゴマサバの別称)かヒラ(マサバの別称)かを見分けることに悩むことが多くなってきました。
マサバ資源の回復が日本のサバ漁業を支えていますので、マサバとゴマサバを正確に区別して、マサバの稚魚や未成魚を保護していかなければなりません。小さなサバが沿岸の定値網や釣などでとられていますが、これがマサバであれば再び海に戻さなくてはなりません。マサバ資源は、行き過ぎるほどの手厚い保護がなければ、回復する兆しが見えてこないのです。漁業者を含めた多くの人達にマサバとゴマサバを見分けて海に戻してほしいといっても、研究� �のようにはできないのは当然だと思います。
水産庁中央水産研究所(現独立行政法人中央水産研究所)では、誰にでもマサバとゴマサバが判別できるマニュアルを作成しました。この方法によると、少し測るだけで、ある部分の斑紋を観察するだけで簡単にサバを判別することができますのでこの方法を紹介します。
その一つの方法は尾叉長(吻端から尾鰭彎入部の内縁までの直線距離)と第1背鰭の底の長さとの比率を求めて判別する方法です。まず、サバの尾叉長を求めます。吻端から尾鰭の縁辺で最も湾入した部分までの長さを測ります。次に、第1背鰭の最も前側にある第1棘条の付け根から第9番目の棘条の付け根までの長さ(これを仮に計測基底長といいます)を測ります。この値を尾叉長で割って100を掛けます。たとえば、尾叉 長250mmのサバの計測基底長が26.25mmとしますと、26.25÷250×100=10.5となります。この計算して得た値を判別指数といいます。この計算では10.5が得られた判別指数ですが、判別指数が12以上でマサバ、12未満でゴマサバと判断されます。この判別方法は99%以上の高い精度で判別できますが、やや精密に測定しなければなりませんので、ノギスによって測定する必要があります。
もう一つの方法がゴマサバの体側にある斑紋をよく観察することです。この斑紋は、背と腹のほぼ中間にあって、頭側から尾に向かって18〜22個あります。この縦走斑紋は不連続で、背面の縞模様とも分離しています。この斑紋はマサバにない場合が多いといいます。実際に測定した結果では、縦走斑紋がなかった個体のうち、約8%のものがゴマサバでした。縦走斑� ��がないからといって、確実にマサバとはいえませんが、判別できる確率は非常に高いようです。
4.低迷する日本のサバ漁
日本のサバ資源は絶滅するのではないかと思われるほど非常に少なくなっています。どのくらい少なくなっているかというと、日本で初めて水産の統計が始められた明治27年から平成11年までの105年間の中でみると、平成11年の漁獲量は全国でわずか38万トンでした。1尾500gのサバで換算してもわずか8億尾位にしかなりません。約1億人の国民が1年にわずか8尾しか食べられないのですから、サバ好きの日本人とってはたいへんなことです。この漁獲水準は第2次世界大戦後の漁獲量と同じ程度ですから、いかに少ないかがわかると思います。
明治維新以来、わが国の政府は食料の生産を高めるために「とる漁業」の政策を押し進めてきました。このために、漁船のエンジンを動力化したり、網やロープ を従来の麻糸から綿糸に変え優良な綿漁網の普及に努めました。そして、明治30年(1897年)頃からサバをとる巾着網の試験操業が行われるようになり、この漁獲技術が10年後の明治40年頃から各地に普及していきました。この技術の進歩によって、マサバの漁獲量は年々増えていきました。
明治27年(1894年)から明治の終わり頃までは、マサバの漁獲量がわずか2〜3万トンであったものが、大正7年には約6万トンに達し、昭和2年(1927年)には約9万トン、昭和14年(1939年)には約15万トンとなり、戦前の中では最も多い漁獲量となりました。しかし、第2次世界大戦へと突入していくに従い、漁船が徴用され、漁業者が徴兵されていき、サバの漁獲量は年々減少していきました。そして、終戦後の昭和22年(1947年)には約6万トンにまで低下しましたが、� �後の食糧難の時代を迎えて、漁船の建造が盛んに行われ、特に魚群探知機の開発によってサバの漁獲量は急激に増加しました。昭和25年(1954年)には、約18万トンの漁獲となり、わずか数年で戦前の最高の水準を超えるようになりました。その後もサバの漁獲は増え続け、昭和29年(1954年)には約29万トン、昭和40年(1965年)には60万トンを越え、その3年後の昭和43年には100万トンを越えるほど増加しました。この100万トン代の大豊漁は昭和55年(1980年)まで続きましたが、この原因は、日本周辺にいるサバのうち、太平洋に分布するサバ(これを太平洋系群という)が急激に増えたためと、これをとる大中型旋網の漁場開発によるものといわれています。
ところが、昭和53年の163万トンを最高にして、翌昭和54年には141万トン、昭和55年には130万とな� ��、昭和56年には91万トンと、100万トンに達しないほど漁獲が減少するようになってきました。その後も減少が続き、昭和60年(1985年)には約77万トン、平成5年(1993年)には約66万トン、平成11年(1999年)には約38万トンと、今では非常に少ない漁獲量となっています。これらの漁獲量はマサバとゴマサバをあわせたものですが、最近の傾向をみると、ゴマサバのほうが圧倒的に多く、マサバはわずかしかとれていません。昔は、ゴマサバをみてもとらずにマサバばかりをねらっていたのですが、最近ではサバの種類を選んでいる余裕がないほどマサバが少なくなってきています。
5.伊豆諸島近海のサバ漁
伊豆諸島近海で漁獲されるサバは古くから寒サバとして知られています。戦前は房州沖で漁獲していましたが、戦後伊豆諸島近海に漁場を開発し現在まで続いています。この寒サバ漁はマサバだけをねらって出漁していました。マサバは春から夏にかけて北上し、北海道東沖などで餌を十分に取り、秋になって水温が下がってきたために南下してきた魚群です。11〜12月に寒サバよりも早く南下してきた魚群は寒サバ漁が始まる頃には脂も抜けて体もやせていますが、冬に南下してきた寒サバは脂がのって太っている魚群です。
寒サバ漁は、毎年正月明けから始まりますが、寒サバが伊豆近海に現れる時期は年によって異なります。伊豆近海で最も漁獲が多かった昭和52年では、1月20日に初めて寒サ バが漁獲されましたが(これを初漁という)、漁獲が極端に減った昭和61年では1月15日に大室出しで初漁となりました。最近では、マサバがほとんどとれませんので、平成7年のように4月18日に初漁がみられたり、初漁となるような寒サバが現れなかったりしています。
どのように妊娠のために期日を決定しない
伊豆諸島近海のサバ漁獲量は、前述した全国の漁獲量とほぼ同じような傾向を示しています。昭和52〜54年に10万トン以上の漁獲をあげていましたが、これ以後急速に漁獲が少なくなり、昭和62年には約3万トンとなり、平成11年にはわずか0.7万トン位の漁獲となりました。この間、とる魚はマサバからゴマサバに変わりました。昭和56年まではマサバがほとんどでしたが、昭和57年からゴマサバの占める割合が増え始め、昭和62年にはほぼ同じ割合で漁獲され、平成11年にはゴマサバが全体の8割以上を占めるようになってきました(→グラフ マサバとゴマサバの混獲割合) 。
本来、伊豆諸島近海のサバ漁は、三陸以北から南下してきたサバの親魚を漁獲していました。このサバは、水温の低い冬には黒潮の流れる伊豆諸島近海で越冬し、春に向かってゆっくりと成熟していき、春になると黒潮近くの海域で産卵します。
この魚群をねらって、神奈川、千葉、静岡、東京の一都三県のサバ漁船が出漁します。昭和40年代では、サバ漁船の舷側に座って、イワシのコマセを撒きながら、小さな赤い布を釣針につけた短い釣竿で海面をたたくようにサバを一尾ずつ釣る「はね釣」を行っていました(→写真 はね釣の様子)。
昭和50年頃からは、3m前後の長い竿の先端に直径70cmの網袋をつけた「たも網」で、撒いた餌に突進してくるサバを一度にすくいとるようになりました(→写真 たもすくいの様子1、様子2)。この漁法を「たもすくい網」と呼んでいます。
冬の西風の厳しいなか、日没から夜明けまで10数時間、真昼のように集魚灯をつけてサバ漁が続けられます。漁場は、三宅島や新島などの島影にならないような水深200mよりも浅い海ですので、西風がまともに漁船に当たり、波も高く、海に多少慣れた研究者でもたも網をスムーズに扱うことはできません。餌を撒いて30分前後で海底から浮上してきたサバが群がって突進してくると、その魚群をめがけて、その前面をさえぎるようにしてたも網をいれるのですが、早く入れすぎるとサバはたも網の直前で急旋回して逃げてしまいます。たも網をうまくいれても、サバが入りすぎると船内に取り込むのに大変です。網から水がこぼれるというのは陸の話で、たと� ��魚が入っていなくても、海の中に入れたたも網を水中から引き上げるのも大変な力が必要です。この作業を朝まで続けるのですから、サバをとるのにいかに大変なことかがわかると思います。
この大変な重労働も最近ではめっきり減ってきてしまいました。大きな群れのサバが見えないので、サバが群がって船の周りを泳ぎまわることが少なくなりました。少ない群れにたいしてたも網を入れても疲れるばかりであまりとれません。少ない群れのときにはたも網を使わずに、はね釣りで一尾ずつ釣ります。今年も時化の多い中で、サバ漁が行われていますが、相変わらずゴマサバばかりで、マサバがなかなか見えないようです。
6.マサバの一生
夏から秋にかけて北の海で過ごした太平洋系群のサバは、秋には丸々と肥え、栄養満点のマサバとなって、伊豆諸島海域に向けて南下してきて、伊豆諸島近海で越冬し、3、4月の春に産卵します。このマサバはどのようなところで産卵するのでしょうか。
神奈川県をはじめとした一都三県のサバ研究者は、昭和42年から共同で産卵にきたサバの生態や資源を研究し、毎年その成果を「関東近海のマサバについて」と題して発刊しています。この報告書をみると、昭和42年から現在までのサバがどのように漁獲され、どのような年齢のものが漁獲されたか、産卵はいつ頃から始まり、いつ頃終わったか、などサバのいろいろなことがまとめられています。この報告書と多くの学者が発表した論文の中から、サバ の一生をみることにしましょう。
(1)産卵場
魚はどこでもいい加減に産卵しているわけではありません。マサバも同じことで、生まれでた子供たちが生き延びることができるような最も良い環境の中で産卵します。マサバ太平洋系群が伊豆諸島近海で産卵していることは昭和20年代後半から30年代にかけて行われた産卵調査で確認されました。それまではこの海域で産卵していることは誰も知りませんでした。
この調査では、採集されたマサバの卵がたくさんとれるところが産卵場であるとされましたが、一都三県の寒サバ漁で漁獲されたサバの親魚からも産卵場であることが確認されています。漁獲されたサバのお腹をみると、卵や白子が大きく、その中の卵も放出直前の卵のように大きくなっていますので、これから産卵するサバであることがわかり� �す。
越冬していたサバはゆっくりと卵や白子を月日と共に大きくしていき、越冬場の水温が15℃以上になると成熟したものから産卵をはじめます。そして、水温が18℃になる4〜5月には盛んに産卵をするようになります。
産卵は、ほとんどのものが前夜半の21時から夜中の0時ごろまでの間に水深50m位の中層で、毎日行われます。うまれでたばかりの卵は比較的狭い海域に集中して採集されていますので、現在では、産卵場は卵が採集された海域よりも狭い海域と考えられています。
マサバ太平洋系群の産卵量は、体長30〜40cmのもので約30万粒位といわれています。これらの卵を一度に全部産み出すわけではなく、何回かに分けて産卵します。このように1産卵期に何回も産卵することを多回産卵と呼んでいます。サバ類は多回産 卵を行う魚ですが、最近の研究によると、平均して1産卵期に4〜5回、1回に2〜9万粒の卵を産卵していることがわかりました。
産卵場となる海域の特徴は、瀬のある水深200mよりも浅いところで、伊豆諸島近海では大室出しや銭洲等がよく知られています。マサバが最も多くとれた昭和54年(1979年)の産卵群は、まだあまり成熟していないときには黒潮から離れて分布していましたが、成熟してくると黒潮の中に分布するようになりました。このようなことは昭和53年にも生じていますので、マサバが産卵するときには黒潮に近づく性質があるようです。これは、卵の生き残りをよくするためのマサバの戦略と考えられています。マサバの産卵場にはカタクチイワシやマイワシの親魚が多く分布していますので、これらの魚にマサバの卵が食べられないようにするために、黒潮の近くで産卵し (→図 伊豆諸島から常磐海域におけるサバ属卵の分布) 、卵を広い海域に分散させようという進化の途上で獲得した戦略といわれています。
産卵の終わったマサバは餌の多い三陸や北海道沖に向かって北上していきます。産卵がまだ十分に終わっていないものも一緒に北上することがあります。サバの資源が少なくなってきた近年でも常磐・鹿島灘などで産卵中のものが確認されています。このようなことが日本海側でもみられ、能登半島周辺以南で越冬し産卵するマサバが、産卵せずにそのまま浮上して北上し、北海道の日本海側にある石狩湾で大量に産卵したことがあります。
(2)特徴のないサバ卵
サバの卵は直径1mm前後の球形で、油球を1個もっています。生まれ出た卵は1個ずつ分離して中層から表層に向かって浮上します。この卵を採集して、サバがいつ頃産卵したか、たくさん産んだかどうかを判断して、その年に生まれたサバ(これを年級群という)の資源状態を判断しています。
昭和50年代前半のようにマサバが非常に多い時代では、採集したサバ属の卵をマサバの卵としてもそれほど資源量の判定に影響はなかったのですが、近年のようにマサバが少なくゴマサバが多い状態では、どちらの卵かは大変重要なことです。特に、サバ属の卵はマサバにしてもゴマサバにしても卵膜や卵黄に特殊な構造がなく、どちらの卵かを決める目安がありません。
マサバはゴマサバよりも水温の低� �海で生活しますので、これらの2種が住み分けをしているようにみえますが、暖かい水と冷たい水がぶつかり合う関東近海では、マサバもゴマサバも分布していて、両方とも産卵をしています。産卵時期も両者共3月から6月と長く、その卵も光学顕微鏡で見た外部形態からは区別することができません。
卵の数は、海に住む魚の資源状態を求めるための一方法としてよく使われています。外国では卵の数から求める方法が一般的な方法です。国連海洋法条約が締結されて以来、自分の国の回りに住む魚は、その国が責任をもってその資源を管理することが義務づけられるようになってきました。相模湾では、マイワシ、マアジ、サバ類のとる量が国によって許可されています。漁業者といえども好きなだけとってもいい時代は終わりま� �た。このとってもいい量を決めるときにはその魚の資源量を求めなければなりません。闇雲に決めることはできません。科学的に資源量を算定するのですが、この時にその魚の卵の量が必要となってきます。
ところが、前述したように、サバの卵はマサバのものかゴマサバのものか決める手だてがありませんでした。サバは我々日本人にとって最も庶民的な人気のある魚ですから、水産のある研究者はなんとかサバの卵を判別する方法を見つけようと、沖でとれたばかりのサバで人工受精を試み、その卵を良く観察しましたが、マサバとゴマサバの違いを見つけることができませんでした。
そこで、この卵の判定に応用されたのが、今はやりの遺伝子DNAの活用です。DNAは小さい魚を大きくしたり、寒さや病気に強い植物を作った� ��、犯罪捜査にも活用されているものすごく頼りになるものです。ただその欠点は、分析に高度な技術と大量な試料を処理できないことです。それでも、日本エヌユウエス(株)瀬崎博士・東京大学教授渡部終五博士・神奈川県水産研究所三谷勇博士の共同研究グループは、1999年7月に我が国で始めてマサバとゴマサバの卵の判別に成功しました。DNAのある部分を増殖させ、分子の配列をマサバとゴマサバで照合しました。マサバとゴマサバに異なる遺伝子をもつ部位のあることを発見しました。今まで、わずか1mm前後の卵ではあまりにも小さすぎてこのDNAを分析することはできなかったのですが、近年開発されたPCR法で遺伝子を増殖させて分析することによって可能にしました。この発見は、サバだけでなく、我が国の沿岸に住む多くの魚に� ��応用することができる画期的な研究で、資源を科学的に分析し適正に管理する上にも一歩前進したといえます。
自分兼女性の作り方
(3)共食いする稚魚
サバの卵は水温20℃位で約2日間で孵化します。孵化した仔魚は全長2.8mmの大きさで、産卵された深さから表層まで一様に分布しています。孵化して約2〜3日で腹の下にあった卵黄を吸収しつくし、自分で餌を取るようになります。この時の仔魚を後期仔魚といいます。全長15mmで各ひれがほぼ完全に出来あがりますが、この仔魚の間に肛門の位置は体が成長するに従い後ろのほうに下がっていきます。これはサバ型変態といわれ、サバが成長していく過程の中で特徴的な出来事です。後期仔魚は、動物プランクトンの中のかいあし類の卵やその幼生を食べていますが、この動物プランクトンが多く分布する表層で生活しています。
ひれが完成した全長約18mm前後の子供のサバは稚魚と呼ばれます。稚魚になると、体形は成魚と同じような形になりますが、この発育期には共食いすることで知られています。後期仔魚も稚魚も表層で生活していますので、仲間同志が遭遇する機会が多く、その時に仲間と知ってか知らずか相手を食べてしまいます。
これらの仔稚魚は産卵場から黒潮の流れに沿って運ばれます。房総半島の東岸に沿って採集され、その一部は鹿島灘にも運ばれます。全長3〜5cmとなった稚魚期の終わり頃には遊泳力もつき、群れをつくって回遊するようになり、全長5cm以上になると、黒潮などの強い流れから抜け出して沿岸に押し寄せるようになります。東北の沖合海域に広く散らばっていた幼魚は、夏頃から徐々に餌の豊富な各地の沿岸に接岸してい� ��ます。相模湾でもサバっ子として港の中や沿岸の定置網で漁獲されます。
明治時代には、サバっ子のことを漁師のもらいっ子のようだと評していました。それは、5,6月頃から三崎の海に来遊し、一潮(15日間)が一年にもなるくらい成長が早く、小サバになる7、8月頃にはさっと姿を消す魚でしたので、この姿の消すことが漁師の養子のようだといっていました。明治30年代は、サバの1本釣りを行うためには人手がたくさん必要でした。舟に乗せられるだけの人を集めるために養子縁組みをしてもらいっ子を多くしましたが、その子たちもあまりにも重労働のために、一人前になるといつとなくサーといなくなりました。これが、ちょうどサバっ子と似ているというので、サバっ子のことを漁師のもらいっ子のようだといっていたそうで� ��。この説話からもサバの幼稚魚は非常に成長が早いことがわかります。
(4)低温に強い未成魚
夏頃から沿岸に接岸した幼魚は成長して体長15cm以上となり、各地のサバ漁場でまき網などによって漁獲されるようになります。このときの発育期に当たるサバを未成魚といいます。未成魚は餌の多い海域を自主的に選んで回遊していますので、毎年いつも同じ環境のところに現れます。この性質を利用して、まき網の漁業者は未成魚を大量に漁獲することができます。
未成魚は秋から冬にかけて太平洋岸を南下してきます。その未成魚が好んで集まる場所は、水深が60〜80mの等深線に沿った海域で、そこに濃密に分布します。一回の操業で30トン以上も漁獲することができます。この海域は、成魚が分布する海域よりも非常に沿岸に片寄っています。これは、マサバの未成魚とそれよりも大きく成長� ��た成魚の生態がかなり違うためですが、この他にも生息している水温にも違いがみられます。
一般に、未成魚が分布する水温の範囲は成魚よりも広く、成魚は未成魚よりも狭い範囲の水温に分布しています。未成魚の表面水温範囲は6〜25℃で、成魚では9〜23℃位といわれています。
昭和40年(1965年)3月中旬に岩手県の沿岸で仮死状態のマサバ未成魚がたも網で大量にすくいとられるという出来事がありました。このときの表面水温は1〜1.5℃と異常に低い水温でした。普通、マサバ未成魚が越冬する水温は、日本海側では表面水温が7℃位、太平洋側でも6℃が限界ですが、ただ生きているという生理的な水温では3℃位の表面水温が限界ではないかと推定されています。
(5)先に回遊する大きな成魚
一般的に、成熟した大きさの魚を成魚といいます。太平洋系群のマサバは、1歳で約2割程度が成熟し、2歳で約6割、3歳でほぼ全数が成熟します。日本海系群のマサバは1歳で約4割位、2歳でほぼ全数成熟します。成熟する最も小さい体長は、尾叉長で25〜27cmで、年齢は約1歳です。
夏から秋にかけて北の海で餌を十分にとり、栄養を十分に蓄積したマサバは、越冬・産卵のために南下を始めます。この南下回遊は、体の大きいものから開始します。漁獲が最も多かった昭和54年に、伊豆諸島海域に最初に現れたマサバは1月の3、4歳魚でしたが、その後、2,3月になるに従い2歳魚が多く混ざるようになってきました。このように、大型魚が先行して回遊する現象は、資源が増え始めるときでも、最も多 い時代でも、少なくなってきた時代でも同じように生じ、また、南下回遊ばかりでなく、餌を求めて北上するときにも、大きなマサバから回遊を始めます。
なぜ大きな魚が先行するかはいろいろな学説があります。
その一つに、「体の大きいものが早いスピードで泳ぎ、小さいものは遅いため」という説があります。北海道東沖から伊豆諸島近海まで南下するのですから、遅く南下をはじめても長い道中の間に小さいものを追い抜くという説です。もう一つは、「体長の大きい高齢魚は小さいものよりも体に栄養を十分にとり生殖腺も早く大きくなるので、ホルモンの作用によって早く南下を始める」という説です。どちらの説もまだ決定的なデータは得られていません。
南下を始めた成魚がいつ頃まで北の海にいるかとい� ��と、それは周りの水温によって決定されます。三陸の八戸沖にいたマサバは、11〜12月頃の漁場水温が13℃前後になると、漁場を離れて急速に南下するようになります。13℃という水温は、未成魚が滞留できる水温よりも5℃位高い水温ですから、未成魚のほうが寒さに強いことがわかると思います。
関東近海でも、昔行われていたはね釣の漁業記録によると、表面水温が13℃になるとほとんど浮上しなくなることが漁業者の経験から知られています。マサバが不漁の近年でも、冬季の2月頃に伊豆半島東岸から15℃の等温線が沖合に張り出し、サバ漁場のひょうたん瀬や三宅島近海をおおうような海況になると、マサバがまったくとれなくなります。これもマサバの成魚が冷たい水温にがまんできずに、水温の高い黒潮近くに移動したか� �または、海底にジーとしているためと考えられています。
では、水温の高いときには成魚はどのような行動をとるのでしょうか。
伊豆諸島近海で産卵が終わったものから順次餌の多い北の海に回遊していきます。産卵が最も盛んとなる表面水温は18℃前後ですが、さらに水温が上がって20℃になると、マサバは濃密な群れをつくって急速に産卵場を離れます。ひょうたん瀬や銭洲にいた成魚は大室出しを通って北上していきます。房総半島沿岸の定置網でも大量のマサバが漁獲されるようになります。
この北上するときに沖合の海況状態によっては、房総半島東岸を北上せずに野島崎沖から房総半島西岸を北上し、6月頃洲の崎沖に、7月には松輪沖に達し、東京湾の観音崎沖まで北上し、水温の下がる10月頃まで餌をとり続け� ��群れもみられます。これが、神奈川県のブランド商品である「松輪のサバ」の起源です。このサバは、昔は「ワナカのサバ」といわれ、松輪の漁業者にとっては夏場の大きな収入源となっていました。
明治時代には、サバが三崎沖になかなか現れないときに、三浦市三崎にある本瑞寺のたいへんえらい坊さんに頼んで、城ケ島東端の安房崎にある神楽高根でお経をあげてもらうと、サバが不思議ととれるようになったと伝えられています。当時、この坊さんはサバ坊主と呼ばれていたそうです。また、神楽高根は、源頼朝が対岸の房州にある洲の崎明神へ神楽をあげた岩礁といわれています。
また、他の説話では、対岸の洲崎明神に灯がともれば、三崎の州の御前もともって、サバがお参りにくるとも伝えられ、三崎沿岸でとれ るサバは洲崎方面から渡ってくるといわれていました。事実、この頃の魚の針は手作りで、房州型と三崎型ははっきり区別することができましたので、三崎沖の夜釣で釣った秋サバが房州型の釣針をくわえていたことからも本当のことでした。現在でも、この名残が松輪のサバ釣でみられます。このサバ釣は6月頃に洲の崎沖に現れたサバを夜間に明かりをつけて行われ、サバがさらに北上して松輪沖に達した7月頃からは昼サバ漁に変わります。明治のサバ釣が平成の現在まで子孫に引き継がれて行われていることに感動を覚えます。
7.生息海域で異なる成長
サバの年齢は鱗にできる輪紋の数によって決められます。鱗を普通の顕微鏡(光学顕微鏡)でみると、鱗の縁に沿って黒い輪(リング)が見えます。大きいサバですと、この輪が同心円状に数本みられます。これを輪紋と呼んでいます。脊椎骨や耳石にも輪紋ができるのですが、脊椎骨の輪紋は不明瞭ですし、耳石は研磨する作業に時間がかかるために、最も簡単に査定できる鱗が用いられています。
鱗にできる輪紋がいつ頃できるかは年齢を決める上に大変重要です。輪紋のできる季節を探すために用いられる一般的な方法は、鱗にできた輪紋のうち一番外側の輪紋から鱗の縁までの長さを毎月測定し、この長さが一番短いときを輪紋のできる月とする方法です。この方法でサバの鱗を測定したとこ� �、サバの輪紋は1〜3月にできることがわかりました。サバは3〜6月にかけて生まれますので、この輪紋を数えると、ほぼ満年齢を数えていることになります。
この鱗の輪紋による成長は、関東近海のマサバでは、1歳で24cm、2歳で31cm、3歳で35cm、4歳で37.5cm、5歳で39cm、6歳で40cmとなります。また、九州西沖のマサバの成長は、1歳で25cm、2歳で31cm、3歳で34cm、4歳で36cm、5歳で37cmです。関東近海のほうが九州西沖のマサバよりも成長が良い結果になっていますが、この魚の成長は漁獲した海域や年によって違ってきます。同じ系群の中では、例えば太平洋系群であれば、北に住むマサバは南のものよりも若齢期に成長が遅く、高齢期には逆に早くなる傾向があります。
また、マサバの成長は、この資源が多いか少ないかによっても変わってきます。マサバ資源が増えている途上にあった昭和41年のマサバの成長は、1年魚で20〜28cm、2年魚で24〜32cm、3歳魚で28〜36cm、4歳魚で30〜38cm、5歳魚で33〜44cmでしたが、マサバ資源が最も大きくなった昭和54年の成長は、2歳魚で27〜34cm、3歳で28〜36cm、4歳魚で30〜39cm、5歳魚で30〜40cmと、若齢魚では大きく、高齢魚では小型化しました。資源が非常に少なくなった平成11年では、2歳魚で31〜34cm、3歳で30〜38cm、4歳魚で32〜39cm、5歳魚で39〜41cmと、昭和41年や昭和54年のものに比べてやや大型化しています。
このように資源状態や漁獲された海域によってマサバの成長は異なりますが、この魚の寿命は、日本では研究されいませ� ��が、カリフォルニア産のマサバでは11歳と考えられています。
8.サバは何を食べている?
サバは全長4mm位になる頃には腹の下にある卵黄を全部吸収し尽くし、活発に泳ぎ回るようになります。この発育期の仔魚は黒潮と沿岸流の間にある海域(これを黒潮内側域という)に分布していますが、この海域に多くいる小さな動物プランクトンやその幼生(子供)を食べています。
全長10mm以上に成長すると、胃の形もできあがり、沿岸性の小型のかいあし類や夜光虫、尾虫類、サルパ類などを食べるようになります。
そして、口器が発達し遊泳力が増してきた稚魚期から若魚期にかけては、沿岸性のコペポーダや尾虫類、サルパ、アミ類、オキアミ類、カタクチシラスなどを食べるようになります。
未成魚期から成魚期にかけては、マサバは南北に大きく回遊しているので、その季節� �よって食べる餌が変わってきています。北海道東沖や三陸沖にいたマサバ太平洋系群が越冬場に向けて南下しているときには、オキアミ類のツノナシオキアミを食べています。このオキアミは、マサバが南下するときに通路となる大陸棚の崖のところに多く分布しているので、マサバはこの餌をねらいつつ南下しているようです。
越冬場についたマサバは、夜間には海底近くに密集し、夜明け近くになって暖水性のかいあし類やカニなどの幼生、サルパ類、端脚類、夜光虫、浮遊性の軟体類などを活発に摂餌します。日中は分散して小さな群れをつくって表層のプランクトンを食べていますが、日没近くから再び朝食べたような餌を活発に食べるようになります。
マサバは産卵期に入っても餌をたくさん食べて体力の消耗を防ぎ� ��す。サケなどのように産卵期に入ると絶食するようなことはありません。産卵期のマサバはかいあし類や端脚類、カタクチシラスなどとともにサバやカタクチイワシの卵を食べます。
そして、産卵が終わって北の餌場に向かって北上回遊に入りますが、北上期には南下期よりもたくさんの餌を食べます。かいあし類やオキアミ類、端脚類、サルパ類、カタクチシラスやその親のカタクチイワシ、ハダカイワシなどを食べますが、サバは何でも口にするわけではありません。
日本海のサバ釣で実験した結果によると、サバ肉と干しうどんを餌としてサバを釣り上げたところ、サバの胃の中にはうどんの切れ端ばかり入っていました。サバもマイワシと同じようにプランクトンを多く食べますが、マイワシでは海中のプランクトンの 組成と一致するのですが、サバは著しく異なることが多く見受けられます。海中にある動物プランクトンが多くいるからといってそれを食べているわけではありません。サバは餌を選んで食べているのですが、なぜ、どのように餌を選ぶのかは謎となっています。
当所の研究によると、洲の崎から松輪沖、金田湾を順次北上してきた松輪のマサバは、魚類とかいあし類(共に約27%)を最も多く食べ、次いで十脚類(約21%)、オキアミ類(約18%)の順に多く食べていました。食べられていた魚類のなかではカタクチイワシが最も多く、このほかにハダカイワシやフサカサゴ、クロタチカマスの仔稚魚が食べられていました。十脚類ではシラエビやユメエビ、ヒオドシエビなど伊豆諸島海域ではあまりみられないものが食べられています。この なかで、シラエビは中深層性のエビで、水深200〜300mのところに分布していますが、このエビが昼夜の上下移動の際に海底に分布しているマサバに見つかって食べられているようです。日本海に分布するマサバも海底付近で越冬中にこのエビを食べています。
マサバが1日当たりに食べる量は、天然では研究されていませんが、水槽で飼育した結果によると、5〜20gの幼魚では体重の10〜14%、20〜50gで6%位とされています。カロリー計算によると、マサバが生まれて満1歳になるまでに体重の15.1倍、その後2歳に成長するまでに体重の11.5倍の餌が必要であるとされています。これより少ない餌しかとれないようであれば、成長が悪く、最悪の場合は餓死することが起きるかもしれません。
9.卵はどのくらい生き残るか
マサバは1尾の雌から1年に約30万前後の卵を産みます。これが全部生き残ると、海の中はサバだらけになってしまいます。産み出た卵は自然に死亡したり、他の魚に食べられたりしてどんどん少なくなっていきます。この少なくなっていくことを初期減耗と呼んでいます。初期減耗が少なければその魚の資源は大きくなり、これが大きければ資源は小さくなっていきます。魚がどれくらい生き残れるかは仔稚魚の時代に生き残れるかどうかで決まります。魚にとっては一生を決める大変な時期です。
1尾の雌から30万粒の卵が生み出されたとします。この卵が孵化するときには約8割が死亡しています。生き残った割合(これを生残率という)は0.22ですから、30万粒の卵のうち、66,000粒が孵化したこ� �になります。
この生き残った孵化仔魚(これを前期仔魚という)は腹の下にある卵黄という栄養分を吸収しながら生き続けますが、これがほぼ吸収し尽くした頃には30万粒の卵のうち11,700尾(生残率0.039)しか生き残らず、残りのものは死んでしまいます。孵化したもののうち約6分の1しか生き残らないのです。
さらに生き残ったもの(これを後期仔魚という)は餌をとり生き続けますが、全長3.6mmに成長する頃には生き残ったものの半分近くが死んでしまい、30万粒の卵のうち4,800尾だけとなります。さらに、全長4.5mmになると1,260尾(生残率0.0042)まで急激に減少します。なんと30万粒の卵がわずか1,260尾しか生き残らないのです。生まれ出た卵のうち1%も生き残らない状態になります。でも、これで死亡が終わったわけではありません。
< p>全長5mm以上になると、死ぬ割合が少しゆるやかになってきます。全長15mmまで成長すると、30万粒の卵のうち153尾(生残率0.00051)が生き残り、全長30mmになるころには42尾(生残率0.00014)しか残らないようになります。30万粒もあった卵がたったの42尾しか残らないのですから、すごく無駄なことをしているようにみえます。でも、雄雌の2尾から42尾も生き残ると、これは約20倍にも資源が大きくなったことになります。実際には、これからも他の魚に食われたりなどして減っていき、最後には数尾しか残らないようですが、この時期までの減少がサバ資源に大きく影響していることには間違いがありません。10.サバ鮨と便秘の良薬?
弱い魚といえば、イワシがよく知られていますが、サバもまた弱い魚です。釣り上げたサバをクーラーに入れると、二、三回バタバタとしたかと思う間もなく死んでしまいます。魚は死ぬと、最初に筋肉が硬くなり(これを死後硬直という)、その後、身が軟らかくなり腐り始めます(これを自己消化という)。死後硬直は筋肉中のアクチンとミオシンという2つの物質が結合してできるアクトミオシンがもとにもどらなくなるために起こります。自己消化は、細胞の中の消化分解酵素が細胞自体を分解するために生じます。
マサバは運動性が強く、暗赤色した血合肉の筋肉がよく発達しています。このなかにあるアクトミオシン分子が死後間もなく短く分解するために、死後硬直の時間も短く、すぐ� �が軟らかくなってしまいます。表面につやも張りがありながら、中の肉は軟らかくなって腐っている、いわゆる「サバの生き腐れ」が生じます。
マサバの血合肉にはヒスチジンという遊離アミノ酸が約700mgも含まれています。このヒスチジンは魚が自己消化しているあいだにヒスタミンに変わり、この物質が人体に入ってアレルギー症状を起こして、ジンマシンや食中毒にかかります。この中毒は下痢症状も起こしますので、元禄8年(1695年)に発行された本朝食鑑(小野必大著)には、便秘の人にはマサバが特効薬であるかのように記され、また、生サバの眼を肛門に入れるとお通じが良くなるとも書かれています。
このようにサバが腐りやすい魚ですので、古くからサバ鮨や塩サバ、干サバなどにして賞味されています。特に、サ� �鮨の酢はヒスタミンの生成を防ぎますので、理にかなった食べ方といえます。
現在、酢を用いたサバ料理に締めサバと棒ずしがあります。締めサバは、脂の乗った鮮度のよいサバを三枚におろし、塩を身が隠れるくらい十分にすって(べた塩)、冷蔵庫に12時間以上入れておきます。それから、水に2〜3時間浸けて塩だしを行い、水分を拭きとってから酢に1時間くらい浸けてできあがりです。
棒ずしは京都や大阪の名物ですが、このサバは若狭のサバを一塩にして夜をかけて「サバ街道」を京都や大阪に運ばれたものです。このサバを使ったのが棒ずしの始まりです。棒ずしは、別名でオランダ語のボートを意味する言葉でバッテラとも呼ばれています。始めの頃のバッテラは尾のピーンと上がったコノシロが使われていましたが、 この魚の値段が高くなり、サバが使われるようになったそうです。
昔からよく食べられていたサバの料理は塩づけにしたサバで、足利時代には、春に北国でとったサバを塩にして、初夏の頃将軍に献上していたと「関秘録」という古書に記されています。なかでも、能登産のサバの塩づけは最も美味であったといわれています。
能登産の塩サバは、江戸時代になっても上品で他国のものよりも優れていると評価されていました。このサバは高貴な人ばかりでなく、井原西鶴の「好色二代男」にもあるように、庶民が競って賞味していました。正徳2年(1712年)に発行された和漢三才図会(寺島良安編)には、能登の海では4月に多く、時たま数万のサバが波のために漂ってきて、釣や網を用いないでもとることができたと書かれています� ��能登のものに次いで、越中・佐渡のものがよく、周防・長門のものはこれらより劣っていたそうです。
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